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1994年10月8日、日本武道館大会のリング上で、鈴木氏はこう発言した。
「私どもはプロレスが最強の格闘技であることを信じております。ですから、ヒクソン・グレイシーなる選手とグレイシー柔術なる格闘技に挑戦し、格闘技最強はプロレスリングであることを証明したいと思います!」
さらにヒクソン側と試合を行う方向で交渉に入っていることまで明らかにしたUWFインター。そこには、「これでヒクソンも引っ込みがつかなくなるはず」という計算があった。しかし、思惑に反してヒクソン側の反応はなく、交渉はその後もまったく進展しなかった。
これで逆に引っ込みがつかなくなってしまったのはUWFインターである。
公の場で発言した以上、なんとしても実現しなければ信用がなくなる。そこにUWFインターの焦りがあった。苦肉の策として、UWFインターは実際にヒクソンの元へ出向いて直談判しようとした。
その交渉役となったのが、UWFインターで最も英語が堪能で、外国人選手招聘の責任者でもある安生洋二だった。安生は、アメリカ在住のUWFインターのブッカーと共に、ヒクソンのいるロサンゼルスの道場に行くことになった。
さらにUWFインターは、11月30日の日本武道館大会のリング上でこう発表した。
「我々は安生洋二をグレイシー潰しのヒットマンとして、正式に送り込むことにしました」
#プロレス #格闘技 #猪木 #RIZIN
ヒットマンとは穏やかな発言ではない。その場で戦うこともあり得るという考えがUWFインターにあったことは間違いない。安生がそのヒットマンに選ばれた理由には、そういう戦いにも対応できる実力者という確信もあったからだろう。
当時、UWFインターで実際に道場を仕切っていたのは安生だった。道場でのスパーリングでは、誰も安生を極めることができなかったという。上り調子だった田村潔司でさえ、スパーリングでは安生にまったく歯が立たなかった。
桜庭和志、高山善廣、金原弘光らといったビッグネームも、すべて安生に育てられたといっても過言ではないのだ。
しかし、ヒットマンに指名されたものの、安生はヒクソンをかなり舐めていた。